世間の片隅でそっと叫んでみる。

一般人で無名の中高年のオヤジが、ブログという世間とネットの世界の片隅で、ADHD(多動性注意欠陥症)を抱えながら、政治や経済などを意見してみる。

表現の自由を叫ぶ方々には、寛容の精神で対応することが肝要である。

H・マルクーゼ「寛容は革命を抑圧するための手段になってしまっている。」

 

 先日、SNSの誹謗中傷で、女子プロレス選手が自殺に追い込まれた。政府はそれを受けて、高市早苗総務大臣が、ネット発信者特定制度改正を検討する意向を表明した。

 また、同時に、与党自民党においても、ネットの中傷規制に議員立法の提出に向けて、プロジェクトチームを立ち上げたそうだ。

 でも、さっそく、これらの政府与党の動きに、表現の自由言論の自由を叫ぶ方々は、危機感を募らせている。果たして、この民主主義国家で、言論弾圧がいとも簡単にできるのか?

 今回のコロナ騒動で、ロックダウンを先進国の中で、できなかったのは日本だけで、それは、日本国憲法が示す個人の権利の尊重と、強い国家権力を暴走させない拘束力がある限り、私ら国民は、好き勝手に言う事ができて幸せだと感じている。

 ああ。パヨクと言われる方々へ、強い口調で反論をしたい誘惑に駆られる。でも、彼らの二重基準ダブルスタンダード)を知っていても、矛盾を追求できても、今日はやめておこうと思う。

 前述のマルクーゼが言うことを、以下のWILL増刊号より引用すれば、「寛容は、革命を抑圧する手段になってしまっている。=世の中が寛容であれば、革命は起きえない。」という。

 つまり、パヨクの方々は、火のない所に、わざわざ火を起こし、世の中に、一石を投じて、あわよくば対立を生み出し、社会不安を煽り、挑発に乗って、権力が抑圧に動きた時、 暴力革命を実行すると予想される。➝かなりムリ筋なのは分かっているが。

  「対抗的な抑圧は、進歩的な教化のために必要である。=保守的な思想には不寛容で、リベラルな発想には寛容であるべき」という前提に、左翼の方々は、世の中を扇動しているのである。本人らは(進歩的発想で大衆を)先導しているつもりであろう。

 だから、色んな意見を言えることの幸せを今一度考える。基本的に私自身はSNS規制には、反対であるが、でも、業界団体での自主規制はあってもいいのではないかと思う。国家権力は、いつでもやるぞとい構えだけは必要で、政府与党が本気で規制をやるには、今の左翼陣営を上手く丸め込めるならば、規制する意義はあるかと思える。

 パヨクの方々の主張をしっかり受け止めていく寛容な社会でありつつも、議論できる環境にしないといけない。つまり相手を尊重し、そして相手もこちらを尊重する。相互信頼関係の構築と、そこから、生み出される結果で、世の中が動いていくことが、寛容を基本としたいい社会であり、これこそがこれからの日本の社会の在り方と思う。