世間の片隅でそっと叫んでみる。

一般人で無名の中高年のオヤジが、ブログという世間とネットの世界の片隅で、ADHD(多動性注意欠陥症)を抱えながら、政治や経済などを意見してみる。

立民ご主張の「多数決でものごとを決めることは数の暴力だ!」は、暴走する多くの民意には響かねえぜ。

 今の国会議員の全ては、民主主義という政治システムで、良くも悪くも国民の民意で選ばれた方々である。そこで、様々な問題が討議されていることと思う。

 ただし、決定は多数決であるが、彼らの存在というより、少数意見にも配慮してきたはずである。いい意味でも、悪い意味でも、この政治システムのおかげで。

 どんな案件でも、判断に迷う時は、最善な方法ではないが、最大多数の幸福を選ぶために、多数決が採用されてきたと思う。決して、それでも、完全に正しい判断ではないが、間違った判断でないという大前提にあると認識しているはず。もちろん、ポピュリズム大衆迎合に陥る危険性を孕んでいるが、これまで日本の政治は、紆余曲折を経て、うまく機能してきたと思う。

 で、「多数決でものごとを決めることは数の暴力だ!」と言い出すと、民主主義を否定すると批判を展開しても、他と同じで面白くないので、私も結構そのほとんどが受け売りで、薄っぺらい意見であるが、この立憲民主党の主張は、薄っぺらいし、響かないし、日本の社会や文化にそぐわないモノであると証明したい。

 経済学部なのに、政治学のゼミを専攻したFランク人間の屈折した意見なので、それそこ世間の片隅で叫ぶしかないんだが。

 立憲民主党この意見は、絶対的な基準や価値観が主張する側にあれば、決して問題ないと思う。どんなに多数でも、基準に照らして、間違っていると分かれば、正しい方向に導かれるからだ。

 となると、国体(国家の成り立ち)が、一神教の宗教国家やマルクスレーニン主義社会主義国家などであれば、ごく少数の宗教的指導者や職業革命家が多くの一般大衆を指導する。少数意見であろうが、それが政治として、意見が反映されるはずであろう。となると、そういう社会での一個人の意見の価値は、非常に低い状態であれば、この主張は実現可能だと思える。

 そういう絶対的基準や価値観は、日本以外の欧米中東などに存在するが、古来から日本にはない。今の日本の民主主義では、日本国憲法は国民の権利と自由を保障していて、一定の原理原則で国民を拘束しているわけではない。

 本来完全完璧な有能さと完全な人格者の絶対王政であるならば全く必要はない。人間は不完全で、自己中心で、苛烈な抑圧、腐敗や不正などの悪に陥り、間違った判断をするということであるから、民主主義は、三権分立をして、権力の分散をして、権力の暴走を制御してきたと思う。

 民主主義だから、デモが起こり、リコールがあるし、住民投票もある。彼らの主張でいけば、それらが、数にモノを言わせた暴走した全て民意なのであろうか?もちろん、全て正しいとは限らないが、数は評価になるはずで、そこに結論があるとみる方が健全な民主主義ではないだろうか。

 それと、何度も言うが、彼らの主張では、絶対的基準と価値観を前提としないと、こういう主張は生まれない。となると、どこに向かわせたいかのか、大方の予想はつくはずである。だから、よく注意して、立憲民主党が日本をどうしたいのか、その真意を考えねばならない。