世間の片隅でそっと叫んでみる。

一般人で無名の中高年のオヤジが、ブログという世間とネットの世界の片隅で、ADHD(多動性注意欠陥症)を抱えながら、政治や経済などを意見してみる。

言論の自由・表現の自由が、みんなを不自由にさせる。

 もうほとぼりが冷めて、誰も「愛知トリエンナーレ」のこと言わなくなったと思ったら、ここ最近では、週刊ポストが「断韓」記事で謝罪騒動※が発生した。

 どんなことでも「自由だ!」と叫べばOKだと思えば、週刊ポストの記事は事実だけど、多数のマスコミや学識者からは、それは「ヘイトだ」と返って来る。そもそも「自虐史観」こそは正当であり、「保育園落ちた。日本死ね!」はOKであり、自由って何なの?基準があいまいでななく、一定のバイアスがかかっていると思える。

 本当の自由は、理想的なことを言えば、色んな立場でモノが言えるし、表現できることではないかと思う。でも、お互いに許容できることが重要であり、一定の力で押さえつけることを嫌う方々がいらっしゃるのも関わらず、一部学識者やメデイアは自由の名を借りて、やりたい放題で、ダブルスタンダードと矛盾した立場で、自己都合な主張を押し通すことしているようにしか、その姿勢は見えない。

 いっそのこと、その自分勝手な「自由」を普段は言わずに、キワキワな問題は避けて、お互いに紳士的にわきまえてもらい、一定の期間や条件を設けて、公開討論をし、ヤバイくらい活発なディスカッションを行うのはどうであろうか。

 どうして今憲法改正なのか?安全保障や自衛隊の在り方はどうあるべきか?税の公平性は実現できているのか?など、こういう主要テーマで、政治家だけでなく、幅広い意見を戦わせることが必要ではないかと思う。

 実際、「自由」という言葉で、かえってみんなが不自由になってしまっていては、本末転倒で、せっかく今ある「自由」の意味がない。実際の「自由」には、社会的な「義務と責任」が常に伴うもので、日本の社会では、マスコミが今ある「自由」を勝ち取ったわけではない。戦後日本が主権を回復した時に、同時に、社会に公平に与えられたモノであると思う。

 何が正しいかを今は問うことはしないが、「自由」の真の意味と価値をかみしめて、社会における立場や役割を超えて、それぞれにとって有益な在り方を自由の名の下で、謳歌しがら、意見を言い、様々な表現活動をできるのが理想であろう。

 

週刊ポストの見出しだけで踊らされて、左右両陣営から事実誤認を積み重ねて、騒動に発展したという見立ても一部ある。リンク先の動画は、韓国と韓国人気質をうまく分析している。こちらのサイトで、いつも、勉強させてもらっている。

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