世間の片隅でそっと叫んでみる。

一般人で無名の中高年のオヤジが、ブログという世間とネットの世界の片隅で、ADHD(多動性注意欠陥症)を抱えながら、政治や経済などを意見してみる。

報道(言論)の自由は存在するのか?

 現実問題として、報道(言論)の自由はないと思う。マスコミの多くは、社会的使命としてよりは、報道(言論)のお仕事をしていると思う。だから、仕事である以上は、それは、様々はご苦労はあって当然。お金をもらっているのだから。

 と言うのも、私がラジオに大昔出演した時、「放送コード」なるものをスタッフさんから事前に説明されたことがあった。おおまかには「・・・差別用語はNGです。例えばめ△らNG➝目の不自由な人はOK、つ◇ぼ➝耳が不自由な人はOKなど、そのように言いかえるように・・・」とか言われた。

 つまり、差別を連想する言葉関しては、すごく神経質で、反発が色々あるんだなと、素人ながら想像できた。

 また、知り合いでFM番組の製作をしている人が以前語っていたのは、「東京がキー局だから、地方局ができることは少ないし、やりたくないけど、スポンサーの意向でやらなきゃならない仕事が多い。」と。

 前提として、強大な国家権力と独裁政権があって、弱き民衆を弾圧していて、言論統制をしている状態で、「報道(言論)の自由」を語るのは私はOKだと思う。しかし、現行の日本国内で、マスコミの人が命の危険に晒されることはほとんどない。そんな中で、報道(言論)の自由って、すでに自由なのに、命もかけてないで、何を言わんかやと思えるのである。

 それが、現内閣や政府の要人等がマスコミ批判のコメントを少しでもしたら、「国家権力の介入あるいは検閲」とかなりオーバーなことを言う。先日そんな事件があったような記憶があるが。今やマスコミは、選挙されて国民が選んだ人々でなくて、「第四の権力」である。当人らは、その当事者意識が希薄なのではと思う。危険を避けて、安全なところで、批判をする。ある時は、批判し続けて、自殺にまで追い込む。そんな彼らの行為は、欺瞞と詐欺行為でしかない。そんな結果責任も一切とらない。 

 知る権利よりも、報道しない自由がある。例えば、関◇生▽ン事件は、TVのキー局では取り上げないし、全国紙でも取り上げないのは、典型的な事例だと思う。一定の勢力には何も言わず、京〇ア△メの被害者の実名報道は、平気でできる。テ◇朝のCPセクハラ事件は実名報道はしないで、訓戒と異動で終了する当たりは、とてもこの業界はヤミが深いと思う。だから、「NHKをぶっこわす!」がブームになるのもさもありなんである。