世間の片隅でそっと叫んでみる。

一般人で無名の中高年のオヤジが、ブログという世間とネットの世界の片隅で、ADHD(多動性注意欠陥症)を抱えながら、政治や経済などを意見してみる。

学術会議問題は、民意をどう見るか?推薦する者の民意と任命する者の民意では、どっちの権威が優先するのかを考えれば分かる。そこが欠如しているからおかしいのである。

 任命拒否は学問の自由の侵害だ!学術会議人事への政治介入だ!解釈変更は違法・違憲だ!とか、色々と騒がれている。

 そもそも赤旗のスクープから、学術会議で推薦した新規会員の105名中6名の会員を首相が任命見送りしたことが発覚し、その外された6名が抗議をしていて、・・・。そんなことからスタートしたと思う。99名はOKで、わずが6名がNG。99名の中、政権に批判的な人もいたとか。→そんなことも報道しない自由で、触れない知らせないマスコミって今の世に必要なのだろうか?学術会議はちょうど存在意義が問われていたから、この事件は、同会議が行政改革の対象になる契機になった。

 

 ところで、日本学術会議法によれば、以下の通りである。

第十七条 日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする。

 それぞれの専門分野での功績などを考慮して推薦された学者の方々を国政選挙で選ばれた内閣総理大臣が、6名の今回の任命見送りが妥当なのかに、論点は絞られたみたい。→学問の自由がって言ってたが、学術会議の軍事研究の声明が、実際に、大学に圧力になり、学問の自由を奪っていた事実があるので、国会では大声で言えないよね。

 

 そもそも、学術会議の運営は、マネージメントを事務方の役所が行い、専門家の学者先生は、同法はさらに、以下の目的のために、以下の職務を行うとある。

第二条 日本学術会議は、わが国の科学者の内外に対する代表機関として、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする。

第三条 日本学術会議は、独立して左の職務を行う。
一 科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。
二 科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること。

 それらを踏まえて、4 つのミッションがあるそうだ。1)「政府への政策提言」2)「科学者間ネットワークの構築」3)「社会とのかかわり」4)「国際的役割」

<「日本学術会議とは何か?」
永山國昭(自然科学研究機構岡崎統合バイオサイエンスセンター)
栗原和枝(東北大学多元物質科学研究所)生物物理 49(3),147-150(2009)より>

 

  これを読むに、任命見送りは違憲や違反とは言えない。この学術会議とは研究の場というより、サロンであり、政治的な役割がある組織であって、学問の自由がある場所ではなく、この組織について、政府の干渉を受けないで、学者による自主的な自治運営をしたいだけなのではと、私は思う。それと、ここの組織では、共産党の影響力が強いのに、「人事に政治が介入!」はおかしな批判と思える。自分らの多くの会員が、そっちの政治色が強いのに、自己中過ぎて草。

 だから、憶測にはなるが、学者による暴走に一定の歯止めをかけるために、どういう経緯かは分からないが、総理府の管轄であり、税金が投入されている以上、内閣総理大臣の任命を条文に入れているのだと思う。

 

 要は、国民の民意を受けた首相が任命するその重さをどう見るか。確かに専門分野について、門外漢の内閣や役所では、専門分野の適性の人材を推薦はできないので、そこは学者先生にお任せしているだけで、その学者の世界の民意も尊重はする。できるだけ同会議内の会員の中で、自主運営する仕組みになっていたと思われる。今までは、国は金は出しても、これまでの歴史や経緯で、口を出さないで、学術会議の運営を学者にすべてお任せしていた。そんな関係性であることは理解できた。任命拒否でなく、任命見送りは、首相の権力乱用でもないし、首相の越権行為でもない。それに、首相としての任命責任を果たした。でも、特定野党・特定メディアは説明責任をというが、任命責任>説明責任であって、国会での報告で十分だと思う。

  

 推薦された会員の中で、自主運営はOKとしても、今回のように、学術会議と総理府で、人事でもめた場合、どっちの民意が尊重されるべきで、特定野党や特定マスコミは一切議論しない。野党の言う菅義偉首相は決して独裁者ではない。

 ちゃんと国政選挙で国民から選ばれ、その国会の中で、首班指名でさらに国会の中で選ばれた人であり、全国民の民意で権限を委託された内閣総理大臣である。しかし、学術会議は、専門分野の世界の中で選ばれた学者であり、その分野で権威ではあっても、彼らに国権の最高機関の権威はない。どっちの民意が優先されるのか明白である。

 専門分野での功績がいくらあっても、主権在民である以上、首相の任命権が優先されるべきではないかと私は思う。そうでないと首相を任命した国会の権威の否定、さらには、国政選挙で投票した有権者の民意の否定であり、6名の任命見送りに反対する多くの方々は、この民主主義の根幹を否定しているのであって、物言わない国民(サイレントマジョリティー)を冒とくしているのである。

 

 11月2日毎日新聞余禄では、大宅壮一氏を「マスコミの王様」として、敬意を表していたが、岸信介(安倍前首相の祖父)などを政治の腐敗に、厳しく断じていたことを称え、その文脈で「国民大衆が「現体制を支持するムードを批判する」とあった。

 結局、特定マスコミは、一般大衆を権力に迎合する烏合の衆にしか見ていない。一般大衆から購読料をもらっているくせに、客をバカ呼ばわりとは、メディアの傲慢不遜である。それを大宅壮一氏を通して、安倍政権から今の菅義偉政権まで、特定メディア側の意見に振り向かない多数の日本人を蔑視しているからこそ、こんな言い方になったのであろう。学術会議の問題で、その多くの特定マスコミは愚にもつかない論理展開しかできず、今は、ネットの世界や世間から、袋叩きにされている。今となっては、国民大衆と言うのも負け惜しみにしか聞こえないが。

 メディアは真の権威を知らずして、好むと好まざるとも、これまで無視し軽視してきた主権者の日本国民から、しかも、真実に目覚めた一般大衆から、逆に排斥されようとしている。でも、彼らはネトウヨが悪いんだとしか思ってない。かえってメディアこそが情報弱者で、あまりもネットへの理解や認識が進歩していない。だから、マスコミは万年不況産業で、ガラパゴス化して、ますます衰退していくいかないのだと思う。

  先ほどの余禄の最後に、読み進めていく中で、私は今のマスコミは、時代を錯誤し、自己中な世界観しかなく、世の中を一番分かっていないの人々の集まりと思えた。政権批判をしたいがために、「「令和おじさん」と「強権人事発令官」を使い分ける菅義偉首相」と表現していた。

 「強権人事発令官」はコラムとしての全くセンスとユーモアがない。エスプリがない。それにあっと驚く意外性とかインパクトがないし、この部分を読ませたいなら、言葉をもうひとひねりして、そのオチにできる文章を練り直したほうがいいのではと思った。もちろん、私にそんなことを言う資格がないのは十分承知であるが。

 そこにも、記者の悲哀を感じた。会社の方針なのか、自分の思想信条を貫きたいのかは分からない。多分時間かけて、何度も何度も推敲してが、イデオロギーを名文にできなかったのではないか。また朝日新聞高橋純子記者のような気持ち悪さ、でも引きつけられる魅力もなかったのが残念である。大宅壮一さんみたいな知的にも巨人で、人を引き付ける文章と豪快な人柄は、今の時代にもう出てこないと思え、その部分だけは同感である。